女優・劇作家・演出家として幅広く活躍する渡辺えりさん。現在のテレビや舞台で見せる親しみやすい存在感とは異なり、若い頃から演劇に情熱を注ぎ、23歳という若さで自ら劇団を立ち上げた行動力の持ち主です。
1955年1月5日生まれ、山形県出身の渡辺えりさんは、山形西高校の演劇部で活動した学生時代を経て、18歳で上京。舞台芸術学院で演劇を学び、もたいまさこさんらと劇団2○○を旗揚げしました。その後、NHK連続テレビ小説『おしん』への出演や、舞台『ゲゲゲのげ』での岸田國士戯曲賞受賞によって、俳優としても劇作家としても知名度を高めていきます。
【学生時代】渡辺えりは山形西高校の演劇部で才能を育てた

山形県で育ち、幼少期から物語や表現に親しむ
渡辺えりさんは1955年1月5日、山形県で生まれました。幼少期には祖母や両親から昔話や童話を聞かせてもらい、父親の影響で宮沢賢治や高村光太郎の詩にも親しんでいたそうです。
物語の続きを自分で考え、人に聞かせることが好きだったというエピソードからも、後に劇作家として活躍する原点がうかがえます。
5歳で山形市内に引っ越した後、小学校では周囲から体格について心ない言葉を受け、学校に通うことが難しい時期も経験しました。しかし、学芸会で犬のお母さん役を演じ、観客から拍手をもらったことが自信につながったといいます。
さらに小学5年生のときには、自分で脚本を書き、演出と主演まで担当した芝居が好評を得ました。演じるだけでなく、物語を作ることにも早くから関心を持っていたのです。こうした幼少期の経験は、後の劇作家・演出家としての活動につながっています。
山形西高校で演劇に没頭した高校時代
高校は山形県立山形西高等学校に進学。演劇部に所属し、部活動に熱心に取り組みました。
2023年に山形県の文化施設が発行した広報誌『MiNGLe.』の対談では、高校時代の演劇部について、夜遅くまで活動し、熱が出て学校を休んだ日にも部活動には顔を出すほど夢中だったと振り返っています。
高校1年生のとき、渡辺さんの人生を大きく変える出来事が起きます。地元・山形で文学座の公演『ガラスの動物園』を観劇したのです。
演出と出演を担当していたのは長岡輝子さん。舞台の中心人物であるローラの繊細な姿に自分を重ね、演劇が人の心を支える力を持っていることに強く感動しました。
さらに渡辺さんは、公演終了後に長岡輝子さんの楽屋を訪ね、役者になるにはどうすればよいかを直接相談しています。大学進学と演劇の道で迷っていた渡辺さんにとって、この出会いは進路を決定する大きなきっかけとなりました。
山形県の文化施設が公開した対談記録でも、16歳の頃に観た『ガラスの動物園』が演劇を志す原点だったことが紹介されています。
【18歳で上京】舞台芸術学院で学んだ渡辺えりの20代前半
親の反対を乗り越えて東京へ
高校卒業後、渡辺えりさんは18歳で山形から東京へ上京しました。
当時、両親は大学への進学を希望していました。父親は教師になる道を考え、母親は洋裁を学んで将来の仕事に生かしてほしいと考えていたそうです。一方、渡辺さんは演劇の道に進む決意を固めていました。
最終的には演劇を学ぶ学校へ進学することを条件に、両親から東京行きを認めてもらいます。
舞台芸術学院での厳しい生活
上京後に入学したのが、舞台芸術学院です。
当時の暮らしは決して裕福ではありませんでした。風呂がなく、トイレも共同のアパートで一人暮らしを始め、仕送りは月3万円。アルバイトをしながら生活費をやりくりしていました。
金融広報中央委員会のインタビューでは、月初めにもかかわらず所持金が13円しか残っていなかったこともあったと紹介されています。
成人式の日も卒業公演の準備に追われ、同じ劇団の仲間とアパートでささやかにお祝いしたそうです。
こうした生活を経験しながら、渡辺さんは演技だけでなく、舞台制作に必要なさまざまな技術を身につけていきました。
青俳の演出部で舞台制作の経験を積む
舞台芸術学院を卒業した後は、劇団青俳の演出部に所属しました。
ここでは演出助手や舞台監督助手をはじめ、美術、衣装、照明、音楽、公演プログラムの制作など、舞台に関わる幅広い仕事を経験しています。
女性が少ない現場で、男性スタッフと一緒に泊まり込みながら作業することもあったといいます。
この経験は、後に自ら脚本を書き、演出し、出演するという独自の活動スタイルを確立するうえで大きな財産になりました。
【23歳で劇団旗揚げ】もたいまさこと劇団2○○から3○○へ
1978年、23歳で劇団2○○を結成
渡辺えりさんの若い頃を語るうえで欠かせないのが、1978年の劇団旗揚げです。
23歳だった渡辺さんは、舞台芸術学院時代の仲間たちと劇団2○○(にじゅうまる)を結成しました。そのメンバーには、後に女優として広く知られるもたいまさこさんもいました。
劇団2○○は、その後、劇団3○○(さんじゅうまる)へと改称します。渡辺さんは劇団の中心人物として、脚本、演出、出演などを担当しました。
当初の公演は観客がわずか5人ということもあり、経済的にも苦労が続きました。しかし、作品を観た人たちの口コミによって少しずつ評価が広がり、次第に公演の規模も大きくなっていきます。
もたいまさことの関係は?
もたいまさこさんは、渡辺さんと舞台芸術学院時代からつながりのある劇団の仲間です。
2人は若い頃から同じ演劇の現場で活動し、小劇場を中心とする舞台表現の世界を切り開いてきました。
ただし、2人の関係を単なる親友やコンビという言葉だけで説明するのは十分ではありません。劇団の立ち上げに関わった同時代の表現者として、それぞれの個性を持ちながら活動してきた関係です。
劇団3○○が小劇場ブームの中で注目された理由
1980年代は、日本の小劇場演劇が大きな盛り上がりを見せた時代です。
野田秀樹さん率いる夢の遊眠社、鴻上尚史さん率いる第三舞台など、既存の商業演劇とは異なる独自の表現を追求する劇団が注目されました。
その中で劇団3○○も存在感を高めていきます。
渡辺さんの特徴は、女優として舞台に立つだけでなく、自ら作品を生み出し、演出まで手がけていたことです。作品の世界観を最初から最後まで自分の手で構築する姿勢は、当時の演劇界でも際立っていました。
2016年に掲載された金融広報中央委員会のインタビューでは、旗揚げ当初の苦労や、少人数の観客から徐々に支持を獲得していった経緯が紹介されています。
【20代後半から30代】『おしん』出演と演劇賞受賞で全国区へ
28歳でNHK朝ドラ『おしん』に出演
渡辺えりさんが映像作品でも広く知られるようになった大きなきっかけが、1983年のNHK連続テレビ小説『おしん』への出演です。
当時28歳だった渡辺さんは、劇団の活動と並行してテレビドラマにも出演するようになりました。
2025年10月の婦人公論.jpのインタビューでは、当時、劇団を1年間休止して資金を蓄える計画があり、その時期にNHKから出演の依頼を受けたことが明かされています。
劇団活動を続けるための準備期間に舞い込んだ仕事が、結果的に全国的な知名度を高める機会になったのです。
『ゲゲゲのげ』で第27回岸田國士戯曲賞を受賞
同じ1983年、渡辺さんは劇作家としても大きな成果を残します。
代表作『ゲゲゲのげ-逢魔が時に揺れるブランコ』で、第27回岸田國士戯曲賞を受賞しました。
この作品は、いじめられっ子の主人公と鬼太郎が、学校に潜む妖怪を退治しようとする物語です。ファンタジーやユーモアを交えながら、いじめや社会の理不尽さ、人間同士の関係を描いています。
単なる娯楽作品にとどまらず、社会の中で傷つく人々に目を向けた作品だったことも、渡辺さんの劇作家としての個性を示しています。
32歳で紀伊國屋演劇賞を受賞
1987年には、舞台『瞼の女-まだ見ぬ海からの手紙』で第22回紀伊國屋演劇賞個人賞を受賞しました。
1983年の岸田國士戯曲賞に続く受賞であり、劇作家としての実力をさらに確かなものにしました。
この時期の渡辺さんは、舞台を中心に活動しながら映画やテレビにも出演するなど、表現者として活動領域を広げていました。
渡辺えりの若い頃から30代までの年表
学生時代から30代までの主な出来事を整理すると、次のようになります。
| 時期・年齢 | 出来事 | 主な実績・意味 |
|---|---|---|
| 1955年 | 山形県で誕生 | 1月5日生まれ |
| 幼少期 | 物語や詩に親しむ | 創作活動の原点 |
| 16歳・高校時代 | 『ガラスの動物園』を観劇 | 演劇の道を志す |
| 18歳・1973年ごろ | 山形から東京へ上京 | 舞台芸術学院に入学 |
| 20代前半 | 青俳演出部で経験を積む | 演出・舞台制作を学ぶ |
| 23歳・1978年 | 劇団2○○を旗揚げ | もたいまさこらと活動 |
| 28歳・1983年 | 朝ドラ『おしん』に出演 | 映像分野でも知名度を高める |
| 28歳・1983年 | 『ゲゲゲのげ』 | 第27回岸田國士戯曲賞 |
| 32歳・1987年 | 『瞼の女』 | 第22回紀伊國屋演劇賞個人賞 |
| 40代前半・1990年代後半 | 劇団3○○の活動に一区切り | 新しい演劇活動へ移行 |
この年表から分かるのは、渡辺さんが20代のうちに劇団の立ち上げと全国的な知名度の獲得を経験し、30代には劇作家として確固たる評価を得ていたことです。
若い頃から俳優と劇作家の両方を本格的に追求してきたことが、その後の長いキャリアを支える基盤になりました。
年表の主な経歴・受賞歴は、オフィス3○○の公式プロフィール、日本劇作家協会の戯曲デジタルアーカイブ、金融広報中央委員会のインタビューを参考にしています。
【写真と名前の変化】渡辺えり子から渡辺えりへ改名した理由
渡辺えりの若い頃の写真はどんな印象?
渡辺えりさんの若い頃の写真を調べると、劇団3○○時代の舞台写真や、1980年代から1990年代にかけての雑誌・映画関連の写真などが見つかります。
現在のテレビ出演時の姿と比べると、当時は髪型や衣装、舞台メイクによって印象が大きく異なります。特に舞台での写真は役柄に合わせた表現が加わるため、普段の姿とは違った雰囲気を感じられます。
1980年代の写真では「渡辺えり子」という名前で紹介されるケースもあります。これは当時の芸名で活動していたためです。
若い頃の写真を探す場合は、撮影年だけでなく、当時の出演作品や名前の表記も確認すると、20代・30代のどの時期の写真なのかを把握しやすくなります。
渡辺えり子から渡辺えりに改名したのはいつ?
渡辺えりさんは、2007年9月に、それまで使用していた「渡辺えり子」から「渡辺えり」へ芸名を変更しました。
改名のきっかけについては、2025年5月9日放送のフジテレビ系『ぽかぽか』で本人が説明しています。
渡辺さんによると、美輪明宏さんから電話があり、名前の画数について助言を受けたことがきっかけだったそうです。美輪さんから新しい名前を勧められ、当時の自身の状況とも重なったことから改名を決めたと明かしています。
つまり、渡辺えり子と渡辺えりは別人ではありません。どちらも同じ人物を指し、2007年を境に芸名が変わったものです。
この経緯は、2025年5月9日付の日刊スポーツでも報じられています。
劇団3○○の解散後も演劇活動を継続
劇団3○○は約20年間にわたって活動し、1990年代後半に解散しました。
その後、渡辺さんは2001年に企画集団「宇宙堂」を立ち上げ、さらに「オフィス3○○」へと活動の形を発展させています。
劇団という組織に所属して作品を作る時代から、企画や演出の自由度を高めた活動へ移行したことは、キャリアの大きな転換点です。
劇団を解散したからといって演劇から離れたわけではありません。むしろ、その後も自分の創作世界を追求する姿勢を強めていきました。
【2026年最新】渡辺えりの現在は?71歳でも続く舞台と創作活動
2026年は新作ミュージカル『SECRET STAGE』に参加
2026年11月6日現在、渡辺えりさんは71歳です。
現在も劇作家・演出家・俳優として活動を続けており、2026年の大きな仕事の一つが、新作オリジナルミュージカル『SECRET STAGE シークレットステージ』です。
本作は市村正親さんが主演を務め、渡辺さんが脚本・演出を担当する作品として発表されました。2026年9月9日から24日まで東京公演が予定され、その後も大阪、香川、静岡、宮城、新潟での公演が発表されています。
舞台芸術学院の先輩・後輩という関係にあった市村正親さんとの共演が実現する企画であり、半世紀にわたる演劇への思いが込められた新作です。
ホリプロステージが2026年4月24日に公開した公演情報でも、渡辺さんが脚本と演出を担当することが明記されています。
2026年12月には『ルーマニアのクリスマス』で朗読
加えて、2026年12月には「ルーマニアのクリスマス」への出演も予定されています。
この公演では、ルーマニア親善大使としても活動する渡辺さんが、ルーマニアの昔話『繋がれた真珠』を朗読します。音楽家による生演奏や、ルーマニアのクリスマスキャロルの合唱とともに構成される文化交流イベントです。
公演日程は次のとおりです。
- 2026年12月19日:東京都八王子市・南大沢文化会館
- 2026年12月20日:城西大学1号棟地下ホール
演劇だけでなく、朗読や音楽を通じて表現活動を続けている点も、現在の渡辺さんの特徴です。
劇作家・演出家としての活動も継続
渡辺さんは日本劇作家協会の会長を2018年3月から2022年2月まで務めた経歴もあります。また、現在はオフィス3○○を主宰し、日本演出者協会の理事も務めています。
2025年には古希記念公演として『鯨よ!私の手に乗れ』『りぼん』の2作品を上演。70歳を迎えた節目にも、自身の創作活動を積極的に続けていました。
2021年には長年所属したシス・カンパニーを離れ、自身の事務所を立ち上げています。本人は当時、残された創作の時間を考え、自分の想像力をさらに追求するための決断だったと公式ブログで説明しました。
若い頃に劇団を立ち上げた渡辺さんは、現在も創作の主体を自分の手に置き続けています。年齢を重ねても、俳優だけにとどまらず、作品を生み出す側として活動していることが大きな特徴です。
【渡辺えりの若い頃】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:渡辺えりは若い頃、どこの高校に通っていましたか?
山形県立山形西高等学校です。高校時代は演劇部に所属し、16歳のときに観た『ガラスの動物園』が演劇を志すきっかけになりました。
Q2:渡辺えりは何歳で上京しましたか?
18歳です。高校卒業後に山形から東京へ移り、舞台芸術学院で本格的に演劇を学びました。
Q3:渡辺えりは何歳で劇団を旗揚げしましたか?
23歳です。1978年に舞台芸術学院の仲間たちと劇団2○○を結成し、その後、劇団3○○へ改称しました。
Q4:渡辺えりと、もたいまさこは若い頃からの知り合いですか?
はい。2人は舞台芸術学院時代からつながりがあり、劇団2○○の結成に関わった仲間です。
Q5:渡辺えりは『おしん』に出演していましたか?
はい。1983年放送のNHK連続テレビ小説『おしん』に出演しました。当時28歳で、テレビドラマでの活動を広げるきっかけの一つになりました。
Q6:渡辺えり子から渡辺えりに改名したのはなぜですか?
2007年9月に芸名を変更しました。2025年のテレビ出演では、美輪明宏さんから名前の画数について助言を受けたことが改名のきっかけだったと本人が説明しています。
Q7:渡辺えりは2026年現在も舞台に出演していますか?
はい。2026年は市村正親さん主演の新作ミュージカル『SECRET STAGE』で脚本・演出を担当する企画が発表され、12月には『ルーマニアのクリスマス』で朗読出演も予定されています。
まとめ:渡辺えりの若い頃は演劇への情熱と挑戦の連続だった
渡辺えりさんの若い頃を振り返ると、山形で過ごした学生時代から、18歳での上京、舞台芸術学院での学び、23歳での劇団2○○旗揚げまで、一貫して演劇に向き合ってきたことが分かります。
特に重要なのは、単に女優を目指していたのではなく、脚本や演出、舞台制作にも積極的に関わっていたことです。劇団3○○での活動を通じて、作り手としての実力を磨き、『ゲゲゲのげ』で岸田國士戯曲賞、『瞼の女』で紀伊國屋演劇賞を受賞しました。
また、28歳での『おしん』出演は、舞台を中心としていた活動をテレビへ広げる転機となりました。渡辺えり子から渡辺えりへの改名も、長いキャリアの中での一つの節目です。
2026年現在も、舞台の脚本・演出・出演、朗読など幅広い表現活動を続けています。若い頃の写真に写る姿だけでは見えてこない、長年にわたる創作への情熱こそが、渡辺えりさんのキャリアを理解するうえで欠かせないポイントです。
23歳で劇団を立ち上げた挑戦心は、71歳となった現在も作品を生み出す原動力として息づいています。