日本の昔の国旗は、現在のような白地に赤い丸を描いた「日の丸」だけだったわけではありません。古代の朝廷儀式で使われた太陽を表す幡(はた)、鎌倉時代の武士が用いた軍扇、戦国武将の旗印、江戸幕府の船印など、時代によって異なる形や役割を持っていました。
現在の日の丸につながる歴史には、701年の古代儀式、1854年の日本総船印の制定、1870年の太政官布告第57号、そして1999年の国旗及び国歌に関する法律という重要な節目があります。2026年現在の国旗がどのように成立したのか、古代から近代までの変遷を年代順に整理し、旗印・船印・国旗の違いや旭日旗との見分け方も解説します。
【古代の起源】日本昔の国旗は701年の「日像幡」から始まったのか

日本の国旗の歴史をさかのぼると、奈良時代初期の701年にたどり着きます。この時代には、太陽を象徴する「日像」という意匠が、朝廷の重要な儀式で使用されていました。
701年、文武天皇の朝賀の儀に登場した太陽の旗
『続日本紀』の大宝元年(701年)正月の記事には、文武天皇が大極殿で朝賀を受けた際の儀式の様子が記録されています。
その記録によれば、正門には烏形の幢が立てられ、左側には日像・青龍・朱雀の幡、右側には月像・玄武・白虎の幡が配置されていました。
ここで注目されるのが、太陽を象徴する「日像幡」です。日と月を対にした装飾は、当時の朝廷が重視していた陰陽や中国由来の儀礼文化とも関係しています。
ただし、この日像幡を現在の白地赤丸の日章旗と同一視することはできません。701年の記録が示しているのは、あくまで太陽を表す意匠が儀式用の旗に使われていたという事実です。
したがって、古代日本の日像幡は日の丸の歴史を考えるうえで重要な先行例ですが、現在の国旗が701年に完成していたという意味ではありません。
日の丸の起源は日本の太陽信仰と関係している?
日本では古くから太陽が重要な象徴として扱われてきました。日本という国号が「日の本」や「日出づる国」というイメージと結び付いてきたことも、太陽を象徴する意匠が受け入れられた背景の一つです。
日の丸の赤い円が太陽を表すという理解は広く定着しています。一方、白い地色にどのような意味が込められたのかについては、歴史的に一つの確定した説明があるわけではありません。
1999年の国旗法制化に関する政府答弁書でも、日の丸の意味を一義的に特定することは難しく、太陽を表すとするのが一般的である一方、白地の意味は詳らかでないと説明されています。
つまり、日の丸の由来には古代の太陽意匠という長い文化的背景がありますが、現在のデザインが特定の一つの儀式から直接生まれたと断定することはできません。
【鎌倉・戦国時代】日の丸は武士の軍扇や戦国武将の旗印だった
古代の宮廷儀式に見られた太陽の意匠は、中世になると武士の文化にも登場します。日の丸が現在に近い形で使われるようになった歴史を考えるうえで、鎌倉時代から戦国時代にかけての武士の旗印は重要な存在です。
鎌倉時代には軍扇に太陽の意匠が使われた
平安時代末期から鎌倉時代にかけて、武士たちは戦場で自らの存在や所属を示すため、旗や扇、指物などにさまざまな図柄を用いました。
その中には太陽を象徴する丸い意匠もありました。武士が使用した軍扇には、赤や金色の日輪を描いたものが見られます。
軍扇は単なる装飾品ではありません。戦場で指揮を伝えたり、武将の権威を示したりする役割を持っていました。太陽の図柄も、視認性の高い象徴として武士の文化に取り入れられていったと考えられます。
ただし、中世の軍扇に太陽が描かれていたことと、白地に赤い円を配した現在の日章旗が全国共通の旗として成立していたことは別の話です。
戦国武将はなぜ旗印に日の丸を使ったのか
戦国時代には、武田氏、上杉氏、伊達氏など、各地の武将がそれぞれの家紋や文字、図柄を旗印として使用しました。
戦場では多数の軍勢が入り乱れるため、遠くからでも識別できる旗印が必要でした。複雑な家紋だけでなく、単純な円形や文字を使った意匠が重視されたのは、実用上の理由もあったからです。
日の丸のような太陽の意匠は、視覚的に認識しやすく、縁起のよい象徴としても受け入れられました。
一方、戦国時代の旗印には、白地に赤い丸だけでなく、赤地に金色の丸など、さまざまな表現がありました。現在の国旗と同じ寸法や色彩規格が統一されていたわけではありません。
武将の旗印と日本の国旗は何が違う?
最も大きな違いは、旗が示す対象です。
武士の旗印は、特定の武将や一族、軍勢の所属を示すためのものです。それに対して国旗は、個々の武将や組織ではなく、国家そのものを象徴します。
中世の日の丸は、後世の国旗につながる太陽意匠の使用例として重要ですが、この時点で日本全体の統一された国旗だったわけではありません。
【江戸時代から幕末】日の丸が幕府の船印になり日本総船印へ発展した経緯
江戸時代に入ると、日の丸は武士の旗印とは異なる役割を持つようになります。特に重要なのが、幕府の公的な船や御城米を運ぶ船に使用された船印としての役割です。
江戸幕府は日の丸を公的な標識として使用した
江戸時代の日の丸は、幕府の公的な印として使われていました。
衆議院に提出された1999年の政府答弁書では、日の丸は寛永11年(1634年)に幕府官章として定められたと説明されています。
また、江戸時代の御城米船にも日の丸の意匠が使用されました。御城米とは、幕府の領地から江戸や大坂などへ運ばれた年貢米のことです。
御城米を輸送する船に日の丸の幟を掲げることで、幕府の公的な輸送船であることを識別できるようにしていました。
「日之丸御城米」という呼び方が残っているのも、こうした使用方法に由来します。
この時代の日の丸は、まだ一般の日本船すべてに掲げられる国旗ではありませんでした。幕府の公的な船舶を示す標識という性格が強かったのです。
1853年、島津斉彬が日の丸を日本全体の船印として提案
日の丸の歴史を大きく変えたのが、幕末の外国船来航でした。
1853年、ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀に来航すると、日本の海防や外国船との識別が重要な課題になりました。
薩摩藩主の島津斉彬は、洋式船や蒸気船の建造を進める中で、日本の船であることを外国船と区別できる共通の標識が必要だと考えました。
鹿児島県の公式資料によると、斉彬は1853年(嘉永6年)11月に幕府へ大船・蒸気船の建造を申請した際、日本船の総印として白い帆に朱色の日の丸を使用し、これを日本全体の船印とするよう進言しました。
当時は外国船の往来が増え、各藩の船がそれぞれ異なる印を掲げるだけでは、国籍を識別するうえで不都合が生じる可能性がありました。
日の丸を日本の共通標識にする考え方には、海上交通と外交の両面から実用的な意味があったのです。
1854年、安政元年に日本総船印として日の丸が採用された
1854年(安政元年)7月9日、江戸幕府は「日本総船印は白地日之丸幟」と定めました。
これが日の丸の歴史における大きな転換点です。
それまで幕府の公的な船などに使われていた日の丸が、日本の船全体を識別するための共通標識として採用されました。
その翌年の1855年には、薩摩藩が建造した洋式軍艦「昇平丸」が江戸・品川に入港した際、日の丸を掲げました。鹿児島県の公式資料でも、この出来事が紹介されています。
さらに1859年(安政6年)には、幕府が「御国総印」を白地の日の丸とする扱いを定めました。船舶の識別標識だった日の丸は、次第に日本という国を表す象徴としての性格を強めていきます。
【歴代の日本の旗】1854年・1870年・1999年の重要な転換点を年表で比較
日の丸の歴史を理解するには、いつ、どのような目的で旗が定められたのかを整理する必要があります。
特に1854年、1870年、1999年は、それぞれ異なる意味を持つ重要な節目です。日本の船舶標識としての採用、近代的な規格の設定、国旗としての法律上の明文化という流れで見ると、成立過程が分かりやすくなります。
日本の昔の国旗と現在の日章旗の歴史年表
| 年代 | 出来事・旗の種類 | 歴史的な意味 |
|---|---|---|
| 701年 | 日像幡 | 文武天皇の朝賀の儀で太陽を象徴する幡が使用された。 |
| 平安末期〜鎌倉時代 | 軍扇・旗の太陽意匠 | 武士の軍扇や旗に日の丸につながる太陽の図柄が登場。 |
| 戦国時代 | 武将の旗印 | 各地の武将が太陽を含むさまざまな図柄を軍勢の識別に使用。 |
| 1634年 | 幕府官章 | 政府答弁書では幕府官章として定められた時期とされる。 |
| 江戸時代 | 御城米船の船印 | 幕府の年貢米輸送船などの公的な標識として使用。 |
| 1854年(安政元年) | 日本総船印 | 江戸幕府が白地の日の丸を日本船の共通標識に指定。 |
| 1859年(安政6年) | 御国総印 | 白地の日の丸が国全体の標識として位置付けられた。 |
| 1870年1月27日 | 太政官布告第57号 | 商船規則で商船に掲げる日の丸の規格を制定。 |
| 1870年10月3日 | 太政官布告第651号 | 海軍艦船用の日の丸の規格を制定。 |
| 1999年8月13日 | 国旗及び国歌に関する法律 | 日章旗を国旗と定め、寸法や色彩を法律で明文化。 |
この年表から分かるのは、日の丸が古代から一貫して同じ形の国旗として使われていたわけではないということです。
太陽の意匠が古代から存在し、中世には武士の文化に取り入れられ、江戸時代には幕府の公的な船印となり、幕末から明治にかけて国を代表する標識へと変化していきました。
1870年、明治3年の太政官布告第57号で商船用の規格を制定
明治維新後、新政府は近代国家としての制度を整備していきました。その過程で、外国との交流や海上交通に必要な国の標識も明確にする必要がありました。
1870年(明治3年)1月27日、政府は太政官布告第57号によって商船規則を定め、商船に掲げる日の丸の規格を示しました。
この規格には、次の特徴がありました。
- 旗の縦横比は7対10。
- 日の丸の直径は旗の縦の長さの5分の3。
- 日の丸の中心は旗面の中央から旗竿側へ横幅の100分の1だけ移動。
現在の国旗と比較すると、縦横比と日の丸の位置に違いがあります。
さらに同年10月3日には、太政官布告第651号によって海軍艦船用の規格も定められました。こちらは縦横比が2対3で、日の丸は旗面の中央に配置される形式でした。
このように1870年には、商船用と海軍用で異なる規格が存在していたのです。
1999年、国旗及び国歌に関する法律で日章旗が正式に規定
日の丸は1870年以来、長い期間にわたって日本の国旗として広く使用されてきました。しかし、国旗一般について明確に定めた法律は存在していませんでした。
1999年8月13日、「国旗及び国歌に関する法律」(平成11年法律第127号)が公布・施行されました。
同法第1条では、国旗を日章旗と定めています。また、別記第一によって旗の規格も明文化されました。
現在の基本的な規格は次のとおりです。
- 旗の縦横比:縦2、横3。
- 日の丸の直径:旗の縦の長さの5分の3。
- 日の丸の位置:旗面の中央。
- 地の色:白色。
- 日の丸の色:紅色。
法律には、従来の商船規則の規格を一定の範囲で使用できる経過的な特例も設けられています。
また、1999年の法律によって1870年の商船規則は廃止されました。
重要なのは、1999年が日の丸そのものの誕生年ではないという点です。長年の慣行によって国旗として定着していた日の丸を、法律上も明確に位置付けた年なのです。
【徹底比較】旭日旗と日章旗の違いは?昔の旗印・船印・国旗を見分ける方法
日本の昔の国旗を調べていると、日の丸と旭日旗が混同されることがあります。どちらも太陽を象徴する意匠を持っていますが、デザインや使用目的は異なります。
日章旗は白地に赤い円を配置した旗
日章旗は、白い旗面の中央に赤い円を一つ配置したデザインです。
一般的には「日の丸」と呼ばれ、日本という国を象徴する国旗として使用されています。
太陽を円形で表現したシンプルなデザインであり、放射状の光線は描かれていません。
旭日旗は太陽から光線が放射状に広がるデザイン
旭日旗は、中心の太陽から複数の光線が放射状に広がる意匠を持つ旗です。
日章旗と同様に太陽を象徴していますが、放射線がある点が大きな違いです。
外務省の公式資料によると、旭日の意匠は大漁旗や出産・節句の祝い旗など、日本国内のさまざまな場面で使われてきました。
また、1954年に制定された自衛隊法施行令によって、海上自衛隊の自衛艦旗や陸上自衛隊の自衛隊旗にも旭日の意匠が採用されています。
つまり、旭日旗は日章旗の単なる別名ではありません。両者は太陽を共通のモチーフとしながら、異なる図柄と用途を持っています。
旗印・船印・国旗の違いを理解する
日本の昔の旗を調べるときは、デザインだけでなく、その旗が何を示すために使われたのかを確認することが大切です。
- 旗印:武将や一族、軍勢の所属を示す旗。
- 船印:船の所属や国籍、役割などを識別するための標識。
- 国旗:国家そのものを象徴する旗。
- 旭日旗:太陽から光線が広がる意匠を持つ旗の総称的な呼び方。
同じ太陽の図柄でも、武士の旗印として使用される場合と、国家を代表する標識として使用される場合では、意味が異なります。
この区別を理解すれば、古代の太陽意匠や戦国時代の旗を、現代の国旗と混同せずに歴史を整理できます。
【プロの結論】日の丸が日本の国旗になった経緯から分かる3つの重要な事実
日の丸の歴史をたどると、単純なデザインの変化だけではなく、日本の政治体制や外交環境、海上交通の発展が深く関係していたことが分かります。
特に押さえておきたいのは、次の3点です。
1. 古代の太陽意匠と現在の日の丸は同一ではない
701年の朝賀の儀に登場した日像幡は、日の丸の歴史を考えるうえで重要な存在です。しかし、それが現在と同じ白地赤丸の国旗だったという証拠ではありません。
古代から太陽を象徴する文化が存在したことと、現在の国旗のデザインがいつ成立したかという問題は、分けて考える必要があります。
2. 日の丸が国を代表する旗になった背景には外交と海防があった
1854年の日本総船印の制定は、外国船の来航が増加する幕末の国際環境と密接に関係していました。
それまでの幕府の公的な標識を、日本の船全体に共通する標識へと発展させることで、外国船との識別を容易にする狙いがありました。
日の丸が国の象徴として広く使用されるようになった背景には、太陽への文化的な親しみだけでなく、近代的な外交・海運制度の必要性があったのです。
3. 1870年の制定と1999年の法制化は意味が異なる
1870年の太政官布告第57号は、商船に掲げる日の丸の規格を定めたものです。国旗一般を対象にした法律ではありませんでした。
1999年の国旗及び国歌に関する法律は、長年の慣行によって国旗として定着していた日の丸を、国旗として法律に明記したものです。
この違いを理解すると、「日本の国旗は1870年に生まれた」という説明が必ずしも歴史の全体を表していないことが分かります。
また、1999年6月の政府答弁書では、法制化によって国旗の掲揚を新たに義務付けることは考えていないと説明されています。国旗としての法的な位置付けを明確にすることと、国民に掲揚を強制することは別の問題です。
【日本の昔の国旗】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:日本で一番古い国旗は何ですか?
A1:701年の文武天皇の朝賀の儀に登場する日像幡が、太陽を表す旗の古い記録として知られています。ただし、現在の白地赤丸の日の丸と同じデザインではありません。
Q2:昔の日本の国旗は今と違うデザインだったのですか?
A2:時代によって異なります。古代には太陽や月を象徴する幡が使われ、中世には武士の軍扇や旗印に太陽の意匠が登場しました。江戸時代には幕府の船印として使用され、現在の日の丸につながる形が定着していきました。
Q3:日の丸が日本の国旗になったのは何年ですか?
A3:1870年(明治3年)1月27日に太政官布告第57号によって商船用の日の丸の規格が定められました。国旗及び国歌に関する法律によって日章旗が国旗として明文化されたのは1999年8月13日です。
Q4:1854年に日の丸は何として採用されましたか?
A4:江戸幕府によって日本総船印として採用されました。白地に日の丸を描いた幟を、日本の船に共通する標識として使用することが定められました。
Q5:旭日旗と日の丸は同じものですか?
A5:同じではありません。日章旗は白地に赤い円を配置した旗で、旭日旗は太陽から放射状に光線が広がるデザインです。どちらも太陽を象徴していますが、図柄と用途が異なります。
Q6:日の丸の赤と白にはどのような意味がありますか?
A6:赤い円は太陽を表すという理解が一般的です。一方、白い地色の意味については、政府答弁書でも詳しい由来は明らかでないとされています。白を純潔、赤を情熱などと説明する場合もありますが、法律上の意味として定められているわけではありません。
まとめ:日本昔の国旗は太陽意匠から近代国家の象徴へと発展した
日本の昔の国旗の歴史は、古代の太陽意匠から中世の武士の旗印、江戸幕府の船印、そして近代国家の国旗へと続く長い変遷の歴史です。
701年の文武天皇の朝賀の儀に登場した日像幡は、古代日本における太陽意匠の重要な記録です。その後、鎌倉時代には武士の軍扇などに太陽の図柄が使用され、戦国時代には武将の旗印にも取り入れられました。
江戸時代には幕府の公的な船印として利用され、1854年には日本総船印に採用されます。そして1870年の太政官布告第57号によって商船用の規格が定められ、1999年の国旗及び国歌に関する法律によって現在の日章旗が法律上明確に規定されました。
特に重要なのは、1854年は日本総船印への採用、1870年は商船用規格の制定、1999年は国旗としての法制化という、それぞれ異なる意味を持つ節目だということです。
日の丸は、単に古くから存在していた模様がそのまま国旗になったものではありません。日本の文化的な太陽意匠を背景に、武家社会、江戸幕府、幕末の外交、明治政府による制度整備を経て、現在の国家を象徴する旗へと発展しました。
古代の幡と現代の日章旗を区別しながら歴史を振り返ることで、日本の国旗が成立した本当の意味と、時代ごとに変化してきた役割をより正確に理解できます。
主な歴史的根拠・参考資料
- 衆議院「国旗・日の丸、国歌・君が代」法制化等に関する質問主意書への政府答弁書(1999年6月11日)
- e-Gov法令検索「国旗及び国歌に関する法律」
- 鹿児島県公式資料「日の丸 発祥の地」
- 日本旗章学協会「日本の国旗」
- 外務省「日本文化としての旭日旗」
- 『続日本紀』大宝元年正月条