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札幌丘珠事件の真相を検証|1878年の経緯と死者4人説、史料の食い違いを徹底解説

桐谷 宗吾 桐谷 宗吾 • 更新: • 公開: • 読了約 23 分
目次

札幌丘珠事件(さっぽろおかだまじけん)は、1878年(明治11年)1月、現在の北海道札幌市東区丘珠町で発生したヒグマによる重大な人身被害事件です。冬眠中のヒグマを猟師が撃ったことをきっかけに、山鼻村から平岸・月寒・白石方面へ移動したクマが丘珠村の民家に侵入。堺倉吉とその長男・留吉らが襲われました。

この事件には、死者3人説と4人説という大きな論点があります。北海道立文書館に残る開拓使関係の公文書、当時の新聞、北海道帝国大学教授・八田三郎の記録などを照合すると、蛯子勝太郎、堺倉吉、堺留吉、雇人の酉蔵という4人が死亡したとする説に重要な根拠が見つかります。加えて、発生日が1月なのか12月なのかという問題や、加害グマの剥製の行方にも興味深い史料上の論点があります。

【札幌丘珠事件とは】1878年に札幌の開拓地を襲ったヒグマの惨劇

札幌丘珠事件

事件の発生場所は現在の札幌市東区丘珠町

札幌丘珠事件が起きたのは、1878年(明治11年)1月18日未明です。現場は当時の石狩国札幌郡丘珠村にあたり、現在の札幌市東区丘珠町に位置します。

当時の札幌は、現在のような大都市ではありません。北海道開拓が進められていた時代であり、丘珠周辺にも原生林や未開墾地が広く残っていました。入植者は農地や住居を整えながら、野生動物が生息する環境の中で生活していたのです。

事件の被害を受けたのは、堺倉吉が暮らしていた小屋でした。夜間に侵入したヒグマは、家の中にいた人々を襲い、倉吉と長男の留吉を死亡させました。妻のリツと雇人の酉蔵も重傷を負い、酉蔵は翌19日に亡くなっています。

加えて、このヒグマは丘珠の民家を襲う前にも、山鼻村で猟師の蛯子勝太郎を殺害したと記録されています。この被害を含めるかどうかが、死者数をめぐる議論の出発点です。

札幌丘珠事件の基本情報

  • 発生年:1878年(明治11年)
  • 発生日:1月18日未明(17日深夜から18日早朝にかけて)
  • 発生場所:石狩国札幌郡丘珠村
  • 現在の所在地:北海道札幌市東区丘珠町
  • 加害動物:大型の雄のヒグマ
  • 主な被害者:蛯子勝太郎、堺倉吉、堺留吉、雇人酉蔵
  • 生存者:堺倉吉の妻リツ
  • 主な史料:開拓使公文録、警察関係記録、当時の新聞、北海道帝国大学教授の著作

【事件の発生と経緯】猟師の発砲から堺倉吉一家への襲撃まで

1月11日:蛯子勝太郎がヒグマに襲われる

事件の発端は、丘珠村から離れた円山・藻岩山周辺の山林にありました。

当時、山鼻村に暮らしていた猟師の蛯子勝太郎は、冬眠中のヒグマを捕獲するため山に入ったと伝えられています。そこでクマ穴にいたヒグマを発見し、銃を発砲。しかし、致命傷を与えられず、目を覚ましたヒグマから逆襲を受けたとされています。

蛯子はこの襲撃によって死亡しました。北海道立文書館に関係する警察記録にも、1月11日に山鼻村で蛯子勝太郎を殺害したヒグマについての記述が残っています。

この時点で、事件は単なる猟師の事故にとどまりませんでした。人間に撃たれて負傷したヒグマが、冬の札幌周辺を移動する状況になったからです。

平岸・月寒・白石を経て雁来方面へ移動

蛯子を襲ったヒグマは、その場にとどまらず、山林から離れて移動を続けたとされています。

明治11年1月19日付の警察関係記録には、ヒグマが平岸村から月寒村、白石村を経て雁来村へ移動し、足跡を見失った経緯が記されています。

この記録は、丘珠事件を単独の民家襲撃としてではなく、数日にわたるヒグマの移動と追跡の末に発生した一連の熊害として理解するための重要な資料です。

開拓使側は熊討獲方を編成し、猟師たちによる追跡を進めました。しかし、厳しい冬の天候や吹雪などによって追跡は難航したと伝えられています。

1月18日午前3時:堺倉吉の小屋にヒグマが侵入

そして1878年1月18日午前3時ごろ、ヒグマは丘珠村に住んでいた堺倉吉の小屋へ侵入しました。

北海道立文書館所蔵の『長官届上申書録』には、堺倉吉の住居に猛熊が入り込み、倉吉と長男の留吉がその場で死亡したことが記されています。

当時の住居は、現在の住宅のような頑丈な建築物ではありません。開拓地では簡素な小屋で生活することも多く、野生動物の侵入を防ぐ設備も十分ではありませんでした。

この襲撃によって倉吉と留吉が命を落とし、妻のリツと雇人の酉蔵も重傷を負いました。リツは逃げ出し、近くに住んでいた石沢定吉に助けを求めています。

開拓使の記録では、石沢定吉がリツを背負って危険な場所から救出した行為について、賞与の対象とするよう上申したことも確認できます。

その後、ヒグマは銃殺される

襲撃の知らせを受けた警察や屯田兵、猟師らは、ヒグマの捜索と駆除を進めました。

当時の読売新聞、明治11年2月2日付の記事には、丘珠村周辺でヒグマが発見され、屯田兵らが捜索に参加した経緯が報じられています。

また、当時の記録をもとにした後年の研究では、加害グマは体長約1.9メートルの雄の成獣だったと伝えられています。

こうして一連の襲撃は終息しましたが、開拓民に与えた衝撃は大きく、事件は北海道開拓時代を代表する熊害の一つとして記憶されることになりました。

【死者数は3人か4人か】開拓使公文録と当時の新聞を比較検証

なぜ札幌丘珠事件には3人説と4人説が存在するのか

札幌丘珠事件を調べる際、最も重要な論点が犠牲者の人数です。

従来の研究では、死者を3人とする記述が複数存在しました。しかし、誰を犠牲者に含めるかについては、研究者によって違いがありました。

代表的なのが、犬飼哲夫・門崎允昭による「堺倉吉、堺留吉、蛯子勝太郎」の3人説と、八田三郎による「堺倉吉、堺留吉、雇人酉蔵」の3人説です。

この食い違いを考えるうえで重要なのが、北海道立文書館に保管されている開拓使関係の公文書です。

開拓使の公式記録に残された4人の犠牲

北海道立文書館の公開資料には、明治11年2月22日付の「札幌郡丘珠村平民堺倉吉小家ヘ猛熊乱入四名死傷右ノ際雇人石沢定吉堺リツヲ救援ニ付賞与ノ件」という文書が登録されています。

これは『長官届上申書録 丙一ノ五 明治十一年』に収録された記録で、請求記号は簿書2425です。

この文書の内容を後年の史料研究で確認すると、次の事実が読み取れます。

  • 1月18日午前3時、堺倉吉の小屋にヒグマが侵入した。
  • 堺倉吉と長男の留吉は即死した。
  • 妻のリツと雇人の酉蔵は重傷を負った。
  • 酉蔵は翌19日に死亡した。
  • 石沢定吉はリツを背負って救出した。

一方、1月19日付の警察関係記録には、1月11日に山鼻村で蛯子勝太郎を殺害したヒグマが、1月18日に丘珠村で堺倉吉と留吉を殺害し、さらに2人に重傷を負わせたという経緯が記されています。

この2つの記録を照合すると、丘珠村での襲撃によって死亡した3人に加え、そのヒグマに最初に襲われた蛯子勝太郎も死亡していたことになります。

犠牲者・関係者の記録比較

人物・関係者 事件との関係 史料上の被害状況
蛯子勝太郎 山鼻村の猟師 1月11日にヒグマに襲われ死亡
堺倉吉 丘珠村の住人・一家の戸主 1月18日の襲撃で即死
堺留吉 堺倉吉の長男 父親とともに即死
酉蔵 堺家の雇人 重傷を負い、1月19日に死亡
堺リツ 堺倉吉の妻 重傷を負ったが石沢定吉に救出され生存
石沢定吉 堺家の雇人 リツを背負って救出した人物

3人説と4人説の違いを整理

3人説の一つは、蛯子勝太郎を含める代わりに酉蔵を含めない説です。これは、酉蔵が襲撃後に重傷を負ったという警察関係の初期報告と、その後の死亡記録との食い違いが関係しています。

もう一つは、倉吉、留吉、酉蔵を死亡者とし、蛯子勝太郎を含めない説です。これは、堺家の襲撃に関する記録を中心に事件を整理した場合に生じる違いです。

しかし、警察関係記録と2月22日付の開拓使文書を組み合わせれば、蛯子の死亡と酉蔵の死亡を両方確認できます。

そのため、現存する複数の記録を総合した場合、死者4人、重傷を負って生存した人1人という整理が有力です。

なお、公文書の件名にある「四名死傷」は4人が死傷したという意味であり、それだけで死者4人を直接証明するものではありません。4人死亡という判断には、別々の時期に作成された警察記録と死亡経過の記録を突き合わせる必要があります。

【発生日と史料の謎】1月説と12月説、開拓使公文録が示す真相

事件は1878年1月18日未明に発生したのか

札幌丘珠事件には、発生日をめぐる混乱もありました。

北海道帝国大学教授だった八田三郎が明治44年に著した『熊』には、1878年12月25日の夜に事件が発生したという記述があります。

一方、犬飼哲夫・門崎允昭による『新版ヒグマ 北海道の自然』では、発生日を明治11年1月17日としています。

加えて、1月19日付の警察関係記録は、ヒグマが1月18日に堺倉吉の小屋へ侵入したと記載しています。2月22日付の開拓使文書も、襲撃時刻を1月18日午前3時としています。

当時の読売新聞も、1月17日の晩に襲撃があったという趣旨で報道しています。これは17日深夜から18日未明にかけての出来事と考えれば、公文書の日時とも整合します。

12月25日説が生まれた背景

12月説については、1875年12月8日に現在の北海道豊浦町付近で起きた別のヒグマ襲撃事件との混同が指摘されています。

この事件も民家へのヒグマ侵入によって住民が襲われた熊害であり、被害者の構成などに共通点がありました。

似た事件が複数存在したことで、後年の記録整理に混乱が生じた可能性があります。

加えて、丘珠事件の犠牲者に関する墓碑や地域史の記録には旧暦の日付が関係しているとする研究もあります。旧暦の日付を現在の太陽暦と同じ感覚で扱うと、発生日の解釈を誤る可能性があるのです。

こうした事情を踏まえると、現存する同時代の警察記録と開拓使文書に基づく1878年1月18日未明という整理が最も有力です。

北海道大学植物園博物館に残されたヒグマの剥製

丘珠事件が後世まで語り継がれた理由の一つに、加害グマの剥製と解剖標本があります。

ヒグマは駆除された後に札幌農学校へ運ばれ、解剖されたと伝えられています。胃の内容物なども調査され、剥製とともに当時の博物館に保管・展示されました。

明治42年(1909年)5月19日付の『北海タイムス』には、博物館に収蔵されていた老熊の剥製と、解剖時に取り出された標本についての回顧記事が掲載されています。

ここでいう博物館は、現在の北海道大学植物園博物館につながる札幌農学校の博物館です。

ヒグマ研究室の資料では、丘珠事件の加害グマの剥製と胃内容物は北海道大学植物園博物館に保管され、現在は一般展示されていないと紹介されています。

ただし、北海道大学植物園の公式収蔵案内では、哺乳類の剥製・毛皮・骨格標本約1万5,000点を所蔵していることが説明されている一方、丘珠事件の個体について個別の保存状態や公開状況までは明記されていません。

したがって、歴史的に博物館へ収蔵されたことと、2026年現在、誰でも実物を見学できることは別の問題です。現在も常設展示されているという理解は正確ではありません。

【北海道開拓時代の熊害】丘珠村の歴史とヒグマが人里に現れた背景

1870年から始まった丘珠地区の開拓

札幌市東区の公式歴史年表によると、丘珠地区の開拓は明治初期に進められました。

1870年(明治3年)には、現在の山形県にあたる酒田県から移民が入植。翌1871年(明治4年)には庚午二ノ村が丘珠村へと改称されています。

また、東区の歴史には、1866年(慶応2年)に大友亀太郎が伏籠川のほとりに移住し、大友堀を開削したことも記録されています。こうした開拓事業が、現在の札幌市東区の形成につながりました。

事件発生当時の丘珠村は、開墾と入植が進んでいたものの、周囲には森林や原野が残っていました。

人間の生活圏とヒグマの生息域が重なっていた

丘珠事件の背景を理解するうえで重要なのは、人間とヒグマの生活圏が現在よりも近接していたことです。

当時の住民は森林を切り開き、炭焼きや農業などを営みながら生活していました。住居の周囲には自然環境が残り、ヒグマが移動する経路と人間の活動場所が重なる状況もありました。

加えて、今回の事件では、冬眠中のヒグマが猟師によって撃たれた後、山から離れて集落周辺へ移動したとされています。

つまり、被害の背景には単純な餌不足だけでなく、銃撃による負傷、冬眠状態からの覚醒、追跡の難しさ、開拓地の住居構造など、複数の条件が重なっていました。

「穴持たず」とは何か

丘珠事件のヒグマを説明する際に使われる言葉が「穴持たず」です。

これは、冬眠のための穴に入らなかったり、何らかの事情で冬眠穴を離れたりして、冬の間も山野を移動するクマを指す伝統的な呼び方です。

冬季に活動を続ける個体は、十分な餌を得られない可能性があり、遭遇した人間にとって危険な存在になり得ます。

ただし、穴持たずという言葉だけで、個体の行動や襲撃理由のすべてを説明することはできません。丘珠事件では、猟師の発砲によって負傷したという経緯も重要です。

この事件は、北海道開拓時代の熊害が、単に野生動物の凶暴性だけで起きたのではなく、人間の活動と野生動物の生態が衝突した結果でもあったことを示しています。

【2026年最新】札幌市東区のヒグマ被害と丘珠事件から続く課題

2021年6月18日には東区で現代のヒグマ襲撃事件が発生

丘珠事件と現代の札幌市東区を結びつける出来事として、2021年6月18日に発生したヒグマ襲撃事件があります。

札幌市東区の住宅街にヒグマが出没し、住民や自衛隊員など4人が重軽傷を負いました。その後、クマは丘珠空港へ逃げ込み、最終的に射殺されています。

この事件は、都市部におけるヒグマ対策の難しさを改めて浮き彫りにしました。

北海道大学の広報メディア「いいね!Hokudai」でも、2021年の東区での襲撃と1878年の丘珠事件が紹介され、同じ地域で約143年の時を隔ててヒグマによる重大な被害が発生したことが取り上げられています。

2026年6月、東区の襲撃から5年を迎えて

2026年6月18日、北海道ニュースUHBは、2021年の東区での襲撃から5年を迎えた特集を報じました。

この報道では、当時クマに襲われ重傷を負った男性の証言や、ヒグマ防除隊の対応体制の変化が取り上げられています。

特に注目されるのは、行政・警察・猟友会の連携強化です。ヒグマ防除隊の関係者は、東区の事故を大きな転換点と位置づけ、実際にクマが市街地へ侵入した場合を想定した対応体制を整えてきたと説明しています。

また、河川や水路を通じてクマが市街地へ入り込む可能性も指摘されています。都市部であっても、自然環境との接点があればヒグマの侵入を完全に排除できるわけではありません。

札幌市東区の2026年度ヒグマ出没情報

2026年11月5日時点で確認できる札幌市の公式情報では、東区の区別出没情報ページは2026年4月14日更新で、令和8年度の東区におけるヒグマ目撃情報はないと掲載しています。

一方、札幌市全体のヒグマ出没情報は2026年10月23日にも更新されており、南区や中央区など複数の地域で目撃情報が公表されています。

この違いは重要です。東区で目撃情報が確認されていないことは、札幌市全体でヒグマが活動していないことを意味しません。また、目撃情報がないことと、人身被害の危険性が完全になくなったことも同じではありません。

2026年の札幌市では、公式ウェブサイトに加えてLINEによる出没情報の配信も行われています。地域ごとの最新情報を確認することが、住民や訪問者にとって現実的な対策です。

明治時代と2026年のヒグマ対策は何が違うのか

1878年の丘珠事件と現在の東区でのヒグマ被害には、共通する課題があります。それは、人間の生活圏に野生動物が入り込んだ場合、発見から安全確保、捕獲・駆除までを迅速に進めなければならないという点です。

一方、現在は警察、自治体、専門的な捕獲従事者などによる連携体制が整備されています。出没情報の公開や住民への注意喚起も行われています。

2026年のUHB報道で紹介された防除隊の取り組みからも、過去の事故を教訓に、現場の判断と関係機関の連携を強化していることが分かります。

丘珠事件の歴史的な教訓は、現代の都市型ヒグマ対策にもつながっています。

【よくある質問】札幌丘珠事件に関する疑問(FAQ)

Q1:札幌丘珠事件はいつ起きた事件ですか?
A1:1878年(明治11年)1月18日未明に発生したとする同時代の公文書が残っています。1月17日深夜から18日早朝にかけての襲撃であり、八田三郎の著作には12月25日という記述もありますが、警察関係記録と開拓使文書からは1月説が有力です。

Q2:札幌丘珠事件の死者は3人ですか、4人ですか?
A2:従来は3人説が広く紹介されてきました。しかし、開拓使公文録と警察関係記録を照合すると、蛯子勝太郎、堺倉吉、堺留吉、雇人酉蔵の4人が死亡したとする説が有力です。妻のリツは重傷を負いましたが生存しました。

Q3:ヒグマが人を襲った原因は何ですか?
A3:冬眠中のヒグマを猟師が撃ち、仕留めきれずに逆襲されたことが発端とされています。その後、負傷したヒグマが山林を移動し、丘珠村の民家に侵入しました。冬眠からの覚醒や負傷などが重なった事件と考えられています。

Q4:蛯子勝太郎とはどのような人物ですか?
A4:山鼻村に暮らしていた猟師です。1878年1月11日に山中でヒグマに襲われて死亡したとされ、丘珠村の襲撃に先立つ最初の犠牲者として記録されています。

Q5:北海道大学植物園博物館に事件のヒグマの剥製は残っていますか?
A5:当時の新聞には、加害グマの剥製や解剖標本が札幌農学校の博物館に収蔵されていたことが記されています。現在も北海道大学植物園博物館に保管されているとする資料がありますが、公式の収蔵案内では当該個体の現在の保存状態や公開状況までは個別に確認できません。一般公開されている標本として扱うことはできません。

Q6:札幌市東区では2026年もヒグマが出没していますか?
A6:札幌市東区の2026年度ヒグマ出没情報ページは、2026年4月14日更新時点で今年度の目撃情報なしとしています。ただし、札幌市全体では2026年も各地域で目撃情報が公表されています。最新の状況は札幌市の区別出没情報で確認する必要があります。

Q7:札幌丘珠事件と三毛別羆事件は同じ事件ですか?
A7:別の事件です。札幌丘珠事件は1878年に現在の札幌市東区で起きた事件で、三毛別羆事件は1915年に現在の北海道苫前町で発生した熊害です。発生年、場所、被害状況が異なります。どちらも北海道の熊害史を語るうえで重要な事件です。

まとめ:【プロの結論】札幌丘珠事件が現代に伝える教訓

札幌丘珠事件は、1878年(明治11年)1月18日未明、現在の札幌市東区丘珠町にあたる丘珠村で発生したヒグマ襲撃事件です。

猟師の蛯子勝太郎が山中でヒグマに襲われたことから被害が始まり、ヒグマは平岸、月寒、白石、雁来方面へ移動した後、堺倉吉の小屋に侵入しました。倉吉と留吉が即死し、重傷を負った酉蔵も翌日に死亡しています。

事件の犠牲者数については、犬飼哲夫・門崎允昭らによる3人説と八田三郎による3人説が知られています。しかし、北海道立文書館に残る開拓使関係文書と警察記録を組み合わせると、蛯子勝太郎を含む4人が死亡したという整理が有力になります。

また、発生日についても、後年の著作にある12月説より、1月18日未明を示す同時代の公文書を重視するのが合理的です。

【プロの結論】

この事件から読み取るべき本質は、ヒグマの危険性だけではありません。開拓によって人間の生活圏が広がる一方、野生動物との距離が十分に保たれていなかったこと、そして負傷した大型野生動物への対応が難しかったことが、被害を拡大させた背景にあります。

2021年6月の札幌市東区でのヒグマ襲撃から5年を迎えた2026年、自治体・警察・猟友会の連携が改めて注目されていることも、歴史との重要な接点です。

札幌丘珠事件は、単なる明治時代の凄惨な熊害として片づけられるものではありません。公文書を照合することで犠牲者の実態が見えてくる歴史資料であり、北海道の開拓史と現代の野生動物対策をつなぐ重要な記録です。

その実像を知ることは、札幌の地域史を理解すると同時に、人間と野生動物が共存するために何が必要なのかを考える手がかりにもなります。

主な検証資料: 北海道立文書館の公文書目録、当時の警察記録・新聞を紹介した史料研究、札幌市東区の歴史年表、北海道大学植物園の収蔵案内、札幌市の2026年度ヒグマ出没情報、北海道ニュースUHBの2026年6月18日付特集。

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コンテンツディレクター 桐谷 宗吾
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