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関東大震災の震源地はどこ?相模湾北西部と神奈川県西部説の真相を徹底解説

新城 灯里 新城 灯里 • 更新: • 公開: • 読了約 10 分
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10万人以上の尊い命が失われた未曾有の大災害、関東大震災。2023年の発生100年という大きな節目を経て、防災意識が一段と高まる現在でも「関東大震災の震源地は一体どこだったのか?」という疑問は多くの人々に検索され続けています。教科書や専門書、公的機関の発表によって「相模湾北西部」と記されていたり、「神奈川県西部」とされていたりと、表記の食い違いに戸惑う声も少なくありません。

この震源地の食い違いには、単なる誤解ではなく、地震学の進展と巨大地震ならではのメカニズムが深く関係しています。内閣府や気象庁が公表している膨大な観測データや調査資料を紐解くと、私たちが学校教育などでイメージしてきた「1点の震源」とは全く異なる、大正関東地震の凄まじい実態が浮かび上がってきます。

【相模湾北西部vs神奈川県西部】公式記録が示す震源地の真相

関東大震災震源地

関東大震災を引き起こした地震(学術名:大正関東地震)の震源地について調べると、公的機関の間でも記述が分かれていることに気付きます。例えば、内閣府「防災情報のページ」の公式資料では「相模湾北西部を震源とする」と明記されている一方で、気象庁の特設データでは「神奈川県西部で発生した」と記述される場面が多く見られます。

この「相模湾北西部説」と「神奈川県西部説」の対立は、どちらかが誤りというわけではありません。地震波が最初に発生した「破壊開始点(震源)」を指しているのか、それとも最も強い揺れと津波のエネルギーを生み出した「主要な震源断層面」を指しているのかという、定義の違いに起因しています。

1923年(大正12年)9月1日11時58分、最初にプレートのズレが始まった地点(震央)は神奈川県西部(北緯35.3度、東経139.3度付近、深さ約25km)と推定されています。しかし、そこで止まらずに断層破壊は一気に相模湾海底へと南東方向に突き進みました。この破壊プロセスの違いこそが、公式記録における2つの表記の背景にある真相です。

【M7.9の巨大断層破壊】「点」ではなく「面」で揺れた大正関東地震

現代の地震学において、マグニチュード(M)7.9という巨大地震を「地図上の1点」として捉えることは実態を正確に表していません。大正関東地震の本質は、相模トラフに沿って沈み込むフィリピン海プレートと陸側のプレートの境界が広範囲にわたってずれ動いた巨大な断層破壊現象にあります。

観測データの精緻な再解析によると、動いた断層面の規模は長さ約130キロメートル、幅約70キロメートルにも及びます。神奈川県西部で始まった最初の破壊は、秒速数キロメートルの猛烈なスピードで相模湾中央部や三浦半島、房総半島南部の直下へと伝播しました。

つまり、震源地を1つの地点として特定しようとすること自体が、巨大地震のスケールを見誤る原因となります。神奈川県西部から相模湾全域、さらには房総半島沖にかけての広大な岩盤そのものが、激しく揺れ動いた「震源域」そのものだったのです。

【被害経緯と震度分布】住家全潰率が物語る揺れの真の凄まじさ

関東大震災といえば、東京の下町を中心とした猛烈な火災被害(火災旋風)が広く知られていますが、地震動そのものによる揺れの被害は震源断層の直上に位置していた地域で極めて甚大なものとなりました。

気象庁が公開している市区町村別の「住家全潰率」から推定される震度分布データを見ると、震源断層に極めて近かった神奈川県南部や房総半島南部、小田原周辺では、全潰率が70%を超える地域が相次ぎました。現在の震度階級に換算すると、広範囲で震度7相当の激震に見舞われていたことが判明しています。

地域区分 主な被災地域 推定震度・住家全潰率の特徴 主な被害形態
震源直上(神奈川・西湘) 小田原、秦野、南足柄など 震度7相当(全潰率70%超の集落が多発) 家屋倒壊、大規模な山崩れ・土砂崩れ
断層域南部(三浦・房総) 鎌倉、横須賀、館山など 震度6強〜7相当(沿岸部で壊滅的被害) 家屋倒壊、地盤隆起、津波による流失
大都市圏(東京・横浜) 横浜市街地、東京下町(本所・深川など) 震度6弱〜6強(地盤軟弱地で倒壊多発) 同時多発火災、火災旋風、密集市街地の焼失
後背地(北関東・山梨) 埼玉南部、千葉北部、山梨東部など 震度5強〜6弱(局所的な地盤被害) 家屋の一部損壊、液状化、延焼火災

東京市内では木造家屋の倒壊に続いて火災が致命的な被害をもたらしましたが、相模湾沿岸部では地震発生後わずか数分から十数分で巨大な津波が押し寄せ、小田原や熱海、三浦半島などを襲いました。揺れ、土砂災害、津波、火災という多重災害が、震源域全体で複合的に発生した経緯が記録されています。

【検証】なぜ「相模湾」と「神奈川県西部」で混乱が続いたのか

震源地に関する表記の揺らぎが今日まで続いた理由には、大正当時の観測体制の限界と、戦後の地震波解析技術の進歩という歴史的背景が存在します。

地震が発生した1923年当時、日本全国に設置されていた地震計の多くは、大正関東地震の凄まじい初動によって針が振り切れたり、観測機器自体が破損したりして、正確な完全波形を記録することが極めて困難でした。東京大学をはじめとする当時の研究者たちは、わずかに残された観測データや地殻変動の測量結果から震源の位置を推定せざるを得ませんでした。

その後、1970年代から2000年代にかけて、気象庁の震源データ見直しや国内外に残された遠地地震波データのデジタル解析、地下構造探査が進展しました。その結果、「破壊が始まった位置=神奈川県西部」「断層のすべり量が最大となった主破壊域=相模湾中央〜北西部」という構造が明確に分離して理解されるようになったのです。専門的な報告書で使われる「震央(点)」と「震源域(面)」という概念の混同が、一般向けの解説記事などで長年表記揺れを生み出す要因となっていました。

【専門家の結論】震源の広がりから読み解く現代の首都防衛

大正関東地震の震源地検証が教えてくれる最も重要な知見は、「震源を点で捉える防災対策の危険性」です。

相模トラフ沿いで発生するプレート境界型地震は、ひとたび断層破壊が始まれば、100kmを超える広大なエリアが一瞬にして激震域へと変わります。神奈川県西部で断層が滑り始めたとしても、その数秒後には相模湾、三浦半島、東京都心部、房総半島へと連鎖的にエネルギーが波及します。「震源地から離れているから安全」という先入観は、このような海溝型巨大地震の前では通用しません。

内閣府の防災想定においても、首都直下地震や相模トラフ沿いの巨大地震では、震源域の広がりと地盤の柔らかさによって揺れの強さが大きく左右されることが強調されています。震源が相模湾であろうと内陸の神奈川県西部であろうと、私たちが暮らす南関東の広範囲が「断層の真上」になり得るという現実を直視することが、何よりも確実な備えの第一歩となります。

【関東大震災震源地】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:結局、関東大震災の正確な震源地はどこだと覚えるべきですか?
A1:地震の破壊が始まった地点(震央)は「神奈川県西部」であり、最も強く断層が滑って津波や激甚被害をもたらした震源断層の中心は「相模湾北西部」です。公的機関でも着目点によって表記が分かれますが、双方を含んだ広大なプレート境界が震源域となったと理解するのが最も正確です。

Q2:東京が震源地ではなかったのに、なぜ東京の被害があれほど甚大だったのですか?
A2:東京の下町地域は沖積低地で地盤が軟弱だったため激しい揺れに見舞われたことに加え、地震発生が昼食時で火を扱う家庭が多かったこと、強風が吹いていたこと、木造家屋が極度に密集していたことで大規模な火災旋風が発生し、焼失面積が壊滅的に拡大したためです。

Q3:大正関東地震と同じ震源で、再び巨大地震が起きる可能性はありますか?
A3:相模トラフ沿いでは約200年から400年の周期でプレート境界型の巨大地震(大正型)が繰り返し発生しているとされています。大正関東地震から100年以上が経過しており、明日起きる切迫度は低いとみられているものの、その前段階として発生するM7クラスの首都直下地震はいつ発生してもおかしくないと警戒されています。

まとめ:正確な知識を未来の命を守る備えへ

関東大震災の震源地をめぐる疑問は、過去の歴史的事実を確かめるだけでなく、私たちが足元に抱える巨大なリスクを再確認するための重要な手がかりです。

「神奈川県西部」から始まった破壊が「相模湾」を揺るがし、広範囲に壊滅的打撃を与えたという事実は、現代の都市構造においても同様の広域被害が起こり得ることを警告しています。震源地という言葉の裏にある「断層破壊の巨大な広がり」を正しく把握し、住まいやオフィスの耐震対策、家具の固定、地域ごとの避難ルールの再点検へとつなげていくことが求められています。

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